吉野川と善入寺島の歴史探訪

第一部 講演会「吉野川と善入寺島の歴史」

実施内容

(1)開催日:令和5年7月24(月) 10:00~12:00

(2)場 所:徳島県立総合福祉センター 401会議室

(3)講 師:国土交通省 四国地方整備局

   那賀川河川事務所      安永 一夫 所長

(4)参加者:39名

講演の概要

1.四国三郎吉野川

瓶ケ森を源流にして東に流れる、河口から40kmの岩津の川幅は150m程度と狭く天然のダムとなっている、河口部では川幅約1300m。

2.吉野川の歴史は「洪水と水害」の歴史

天保14年(1843)「七夕水」、嘉永2年(1849)「酉の水」、安政4年(1857)「八朔水」、慶応2年(1866)「寅の水」の概要が語られた。

明治30年の洪水では渡舟が転覆し粟島の5名の女性徒が犠牲となっている。

3. 川の流れのあゆみ

蜂須賀入国で徳島城が築かれた後舟運の便を良くするため、吉野川と別宮川をつなぐ新川掘り抜き工事が行なわれた。

4. 質疑応答

・四国三郎物語吉野川はかつて次郎と呼ばれていたが三郎となった理由は? 

・第十堰が2段関となっている理由は? 

・吉野川上で線状降水帯か起こった場合その影響は? 等時間まで続きました。

洪水遺跡の紹介

東黒田のうつむき地蔵尊

北井上地区石造文化財 高地蔵尊(うつむき地蔵尊)

「造立文化八(1811)年県内で一番高い、東黒田村講中と県内屈指の豪農豪商、長篠孫太郎の資力で建立」とある。

高い台座に鎮座するお地蔵さんは、俗に「高地蔵」と呼ばれて民衆に親しまれてきました。

高地蔵は、「お地蔵さんが洪水に浸かったり流されたりしてしまっては申し訳ない」という信仰心から造られたと言われております。