吉野川と善入寺島の歴史探訪

第二部 マイクロバスによる現地研修

~第十堰からひまわりの咲く善入寺島へ~

開催日:令和5年7月31日

参加者:27名

第十堰

当日は梅雨明けの晴天でした、川の水量も多く良い景色が見られました。

昔の吉野川は、現在の旧吉野川を本流とし、第十堰の下流には別宮川と呼ばれる川が流れておりました。

徳島城が築かれた後舟運の便を考え、二つの川をつなげ水路を開いたところほとんどの水が別宮川に流れ本来の吉野川は水不足となりました。

第十堰樋門

旧吉野川下流の農業用水の確保・塩水化防止のため宝暦2年(1752)旧吉野川に水を流すため長さ約396mの第十堰が造られた。

写真の第十堰樋門は旧吉野川の取水口として大正12年(1923)に完成し、現在の河道が完成しました。

川島城

現在の川島城は昭和56年に造られた模擬天守で耐震不足のため現在は立ち入り禁止です、5年ほど前に行った時は中の展示物と善入寺島がよく見えました。

阿波に入国した蜂須賀氏は、阿波九城の1つとして林能勝(俗に道感)を城番に配置した。

善入寺島の概要

善入寺島、昔は粟島と言われ、忌部一族が粟を植えるとよく育ったから粟島と名付けたといわれています。

東西6km、南北1.2km、約500haに島民約506戸、3,000人が住んでいました。 明治30年(1897)9月の洪水で渡船が転覆して八幡小学校に通う粟島の女生徒5名が濁流にのまれ死亡するという悲惨な事故が起こり、粟島では吉野川の改修工事を望む声が高まりました。

遊水池計画(吉野川河川第1期工事)

❀明治42年(1909)吉野川の治水のため善入寺島を遊水池にする案が浮上

❀大正2年(1913)全島買収完了

❀大正4年(1915)島民が立ち退かないので強制撤去命令が出る

❀大正5年(1916)完全な無人島となった

川島橋(川島城側の土手より撮影)

善入寺島には合計6この橋がありますが、すべて潜水橋です。大野島橋、川島橋、千田橋、学島橋、学北橋、香美橋。今回は川島橋を渡り善入寺島に入り、帰りは大野橋から阿波麻植大橋を渡り善入寺島の全景を見ました。

善入寺島 岩の鼻展望台より望む
善入寺島移転の石碑

善入寺島移転のいきさつを刻んだ石碑が川島町城山の川島神社から岩の花展望台へ向かう石段の左手にあります。

石碑の台座には、移転した人のうち石碑を建立した101人の氏名と移転先が刻まれ、なかには北海道や朝鮮に新天地を求めた人もいました。 残念な事に台座に書かれた人名は剥落が多く読み取れない方もいます。

ひまわりの咲く善入寺島

善入寺島畑地の灌漑工事は昭和30年4月8日起工式が執り行われました。善入寺島の両側は吉野川で囲われていますが、土地は水面より高い位置にあるため、耕作地への灌漑は「つるべ」により人力で汲み上げ作物の間に流しています。

八幡町長の発案で農林省へ陳情し畑地灌漑事業が起こり、全島の灌漑工事は平成元年まで続き夏はひまわりの咲く、秋はコスモスが咲く善入寺島に蘇りました。

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今回の講座では、吉野川と善入寺島の歴史を探訪することにより徳島県の歴史と文化の一端を知る機会となりました。今後も色々なイベントの機会を捉え、県民や徳島を訪れる方々に歴史文化を伝承していくため、知識を深めていきたいと思っております。